父には味がある

父と海外旅行に行ったのは小学生のときが最後だ。旅行によく行く家庭で、世間と休みをずらしてよく海外に国内に旅に出かけた。そんな旅のあるとき「もう俺は海外旅行に参加しない」と父は宣言した。宣言を全うする人で、海外旅行は母と兄と3人で行くものになった。父が参加しなくなった旅行は3人で行くものになり、3人で行くものになった旅行は友人と2人や3人や4人で、時に1人で行くものになった。

それなのに、高校生でも大学生でもなくなった今、キャセイパシフィック航空の機内に父と私が並んで座り、父の膝に脚を乗せ私の膝に頭を乗せ眠るこどもと3人で台湾に出かけた。父は孫を寒くないかと気遣いながら「孫は英語でなんて言うんだろう」と呟いた。これから向かう外国で、何か説明する機会があれば英語でいうつもりなのねと柔らかなきもちで「わからないね」と返事をする。飛行機は成田から台湾に向かう上空、孫を英語で何というか教えてくれない機内モードである。

父は台湾でとてもいいおじいちゃんだった。こどもが近寄れば抱き寄せて様々な表情であやし、こどもがどこかよたよた歩いていけば見るからに危ないものは除いて眩しそうに見守り、食事中は自分の小籠包を箸で器用に小さく切って少し冷ましてこどもの口に甲斐甲斐しく運んだ。ただ、ところどころやっぱり父だった。朝、雨続きで湿気深い台湾に目覚めて「湿気がすごい」というと「そうなんだ」と遥か遠くの地の気候を伝えられた人みたいな返事をする。台湾で何度もお会計をしたのに、インドネシアのコインを間違えて店員さんに渡しては「これはインドネシアだ」と確認をする。最終日に「お金の両替は日本でする?」と訊くとまだ数万円分の台湾ドルを持っているはずなのに「次に来るときのプレッシャーのために両替はしない」と答えて、新しい考え方だと関心していた30分後に両替をしている。そうだ、父は予想の斜め上をいく。

 

 父は台湾で行きたいお店やレストランを、「白いノート」にメモして持ってきていた。何か見直したい度に、荷物係の私に「白いノートを出して」と言った。手書きでお店の名前、読み方、住所、注文したほうがいいメニュー、地図が書いてある。父の机と似て、雑多だけれど、ひとつひとつはなんだかいい感じのものに見えるノートだった。

 

父の白いノートのおかげで、人気店では内用(イートイン)と外帯(テイクアウト)の列を間違えずに並ぶことができたし、メニューに掲載されていなくても「Can I order this?」と尋ね、出してもらうことができた。私は父の決して上手くない手書きの文字が常々なんとなく好きで、手帳はきれいに書かないと気が済まない私からすると、白いノートは自由で特別なものに思えた。行かなかったお店の地図も残るなんてすごい、思い出になるノートだ。

そんなノートを、外に少し出かけるとき、父はそんな白いノートを目の前でピリピリと破いて、「さあこれだけ持って行こう」とあるページの下半分、1つのお店の情報だけ書かれた切れ端をひらひら持ってドアに向かった。私は唖然として、だって、この白いノートはせいぜい70枚くらいの薄いノートなのに、どうしてノートを破る必要があったのか、思い出はどこに、よっぽど持ちにくいじゃないか、と驚いた。父は抱いた孫も軽そうにさっさと歩いていく。そうだ、私はまた油断した、父は予想の斜め上をいく。

孫が英語で「Grandson」というのは4日ぶりに日本で眠る夜に携帯で調べて知った。すごく簡単だ。Grandfather 、Gandmotherから容易に想像がつく。台湾を通じて、ずっと狐につままれたような気分を味わっている。